この記事では『太平廣記』の最初の文章である「老子」を全訳します。
最初の訳注なので至らぬ点も多いと思いますが、どうか皆様ご指摘ください。
【原文】
老子者,名重耳,字伯陽。楚國苦縣曲仁里人也。其母感大流星而有娠。雖受氣天然,見於李家,猶以李爲姓。或云,老子先天地生。或云,天之精魄,蓋神靈之屬。或云,母懷之七十二年乃生。生時,剖母左腋而出。生而白首,故謂之老子。或云,其母無夫,老子是母家之姓。或云,老子之母,適至李樹下而生老子。生而能言,指李樹曰,以此爲我姓。
或云,上三皇時爲玄中法師,下三皇時爲金闕帝君,伏羲時爲鬱華子,神農時爲九靈老子,祝融時爲廣壽子,黃帝時爲廣成子,顓頊時爲赤精子,帝嚳時爲祿圖子,堯時爲務成子,舜時爲尹壽子,夏禹時爲眞行子,殷湯時爲錫則子,文王時爲文邑先生。一云,守藏史。或云,在越爲范蠡,在齊爲鴟夷子,在吳爲陶朱公。皆見於羣書,不出神仙正經,未可據也。葛稚川云,洪以爲老子若是天之精神,當無世不出。俯尊就卑,委逸就勞。背清澄而入臭濁,棄天官而受人爵也。夫有天地則有道術。道術之士,何時暫乏。是以伏羲以來,至于三代,顯名道術,世世有之。何必常是一老子也。皆由晚學之徒,好奇尚異,苟欲推崇老子,故有此說。其實論之,老子蓋得道之尤精者,非異類也。
按史記云,老子之子名宗。事[1]魏爲將軍,有功,封於段。至宗之子汪、汪之子言、言之玄孫瑕,仕於漢。瑕子解,爲膠西王太傅,家於齊。則老子本神靈耳[2]。淺見道士,欲以老子爲神異,使後代學者從之,而不知此更使不信長生之可學也。何者。若謂老子是得道者,則人必勉力競慕。若謂是神靈異類,則非可學也。
或云,老子欲西度關,關令尹喜知其非常人也,從之問道。老子驚怪,故吐舌聃然,遂有老聃之號。亦不然也。今按九變及元生十二化經,老子未入關時,固已名聃矣。老子數易名字,非但一聃而已。所以爾者,按九宮及三五經及元辰經云,人生各有厄會,到其時,若易名字,以隨元氣之變,則可以延年度厄。今世有道者,亦多如此。老子在周,乃三百餘年。二百年之中,必有厄會非一。是以名稍多耳。
欲正定老子本末,故當以史書實錄爲主,並老[3]仙經祕文,以相叅審。其他若俗說,多虛妄。洪按西昇中胎及復命苞及珠韜玉機[4]金篇内經,皆云,老子黃白[5]色,美眉,廣顙長耳。大目疎齒,方口厚唇。額有三五達理,日角月懸。鼻純骨雙柱,耳有三漏門。足蹈二五,手把十文。
以周文王時爲守藏史,至武王時爲柱下史。時俗見其久壽,故號之爲老子。夫人受命,自有通神遠見者,禀氣與常人不同,應爲道主,故能爲天神所濟,衆仙所從。是以所出度世之法,九丹八石,金醴金液,次存玄素守一,思神歷藏,行氣鍊形,消災辟惡,治鬼養性,絕穀變化,厭勝教戒,役使鬼魅之法,凡九百三十卷,符書七十卷,皆老子本起中篇所記者也。自有目錄,其不在此數者,皆後之道士,私所增益,非眞文也。
老子恬淡無欲,專以長生爲務者,故在周雖久,而名位不遷者,蓋欲和光同塵。內實自然,道成乃去,蓋仙人也。
孔子常往問禮,先使子貢觀焉。子貢至,老子告之曰,子之師名丘,相從三年,而後可教焉。
孔子旣見老子,老子告曰,良賈深藏若虛,君子盛德若愚。去子之驕氣與多欲淫志,是皆無益於子也。
孔子讀書,老子見而問之曰,何書。曰,易也。聖人亦讀之。老子曰,聖人讀之可也。汝曷爲讀之。其要何說。孔子曰,要在仁義。老子曰,蚊虻噆膚,通夕不得眠。今仁義慘然而汨人心,亂莫大焉。夫鵠不日浴而白,烏不日染而黑。天之自高矣,地之自厚矣。日月自明矣,星辰固自列矣,草木固有區矣。夫子修道而趨,則以至矣。又何用仁義。若擊皷以求亡羊[6]乎。夫子乃亂人之性也。
老子問孔子曰,亦得道乎。孔子曰,求二十七年而不得也。老子曰,使道可獻人,則人莫不獻之其君。使道而可進人,則人莫不進之其親矣。使道可告人,則人莫不告之兄弟矣。使道可傳人,則人莫不傳之其子矣。然而不可者,無他也,中無主而道不可居也。
孔子曰,丘治詩書禮樂易春秋,誦先王之道,明周召之迹,以干七十餘君而不見用。甚矣人之難說也。老子曰,夫六藝,先王之陳迹也。豈其所陳哉。今子所修者,皆因陳迹也。迹者履之出,而迹豈異哉。
孔子歸,三日不談。子貢怪而問之,孔子曰,吾見人之用意如飛鳥者,吾飾意以爲弓弩射之,未嘗不及而加之也。人之用意如麋鹿者,吾飾意以爲走狗而逐之,未嘗不銜而頓之也。人之用意如淵魚者,吾飾意以爲鈎緡而投之,未嘗不釣而制之也。至於龍,乘雲氣,遊太清,吾不能逐也。今見老子,其猶龍乎。使吾口張而不能翕,舌出而不能縮。神錯而不知其所居也。
陽子曰,敢問明王之治。老子曰,明王之治,功葢天下而以[7]不自己,化被萬物而使民不恃。其有德而不稱其名,位乎不測而遊乎無有者也。
老子將去而西出關,以昇崑崙,關令尹喜占風氣,逆知當有神人來過。乃掃道四十里,見老子而知是也。老子在中國,都未有所授,知喜命應得道,乃停關中。
老子有客徐甲,少賃於老子,約日雇百錢,計欠甲七百二十萬錢。甲見老子出關遊[8]行,速索償不可得。乃倩人作辭,詣關令,以言老子。而爲作辭者,亦不知甲已隨老子二百餘年矣。唯計甲所應得直之多,許以女嫁甲。甲見女美,尤喜,遂通辭於尹喜,得辭大驚,乃見老子。老子問甲曰,汝久應死。吾昔賃汝,爲官卑家貧,無有使役。故以太玄清生符與汝,所以至今日。汝何以言吾。吾語汝到安息國,固當以黃金計直還汝。汝何以不能忍。乃使甲張口向地,其太玄眞符立出於地。丹書文字如新。甲成一聚枯骨矣。喜知老子神人,能復使甲生,乃爲甲叩頭請命,乞爲老子出錢還之。老子復以太玄符投之,甲立更生。喜卽以錢二百萬與甲,遺之而去,並執弟子之禮,具以長生之事授喜。喜又請教誡,老子語之五千言。喜退而書之,名曰道德經焉。尹喜行其道,亦得仙。
漢竇太后信老子之言,孝文帝及外戚諸竇,皆不得不讀,讀之皆大得其益。故文景之世,天下謐然,而竇氏三世保其榮寵。太子太傅疎廣父子,深達其意,知功成身退之義,同日棄官而歸,散金布惠,保其清貴。及諸隱士,其遵老子之術者,皆外損榮華,內養生壽,無有顚沛於險世。其洪源長流所潤,洋洋如此。豈非乾坤所定,萬世之師表哉。故莊周之徒,莫不以老子為宗也。
出神仙傳。
[1] 明呉郡沈氏野竹齋鈔本(以後簡稱明鈔本)清陳鱠校本(以後簡稱陳校本)「事」作「仕」。
[3] 太平御覧六五九、引神仙傳無「老」作。
[4] 明鈔本「機」作「机」。初學記二三御覧三六三、引神仙傳作「札」。當是「札」訛爲「机」,寫作「機」。
[5] 藝文類聚七八、太平御覧三六三引無「白」字。
[6] 明鈔本「羊」作「子」。
[7] 明鈔本「以」作「似」。
[8] 明鈔本「遊」作「遠」。
【日本語訳】
老子という人は、名前が重耳、字が伯陽で、楚の国の苦県曲仁里の人である。彼の母は大きな流れ星に感じて妊娠した。自然の気を身に受けたが、李家に現れたので、「李」という姓になった。ある人が言うに、「老子は天地に先んじて生まれた」と。ある人が言うに、「天の精神は、思うに神霊に属する」と。またある人が言うに、「老子は母が身ごもってから七十二年経って生まれた。生まれたとき、母の左脇のところを割って出てきた。生まれながらにして老人のような白髪であったので、『老子』と呼ばれた」と。またある人が言うに、「彼の母には夫がいない。老子の『老』とは母方の家族の姓である」と。またある人が言うに、「老子の母は、まさに李の木の下に行ったときに老子を生んだ。生まれながらにして言葉を話すことができ、その李の木を指さして、『この李の木を私の姓にしよう』と言った」と。
またある人が言うに、「老子は上三皇の時代には玄中法師となり、下三皇の時代には金闕帝君となり、伏羲の時代には鬱華子となり、神農の時代には九霊老子となり、祝融の時代には広寿子となり、黄帝の時代には広成子となり、顓頊の時代には赤精子となり、帝嚳の時代には禄図子となり、堯の時代には務成子となり、舜の時代には尹寿子となり、夏の禹王の時代には真行子となり、殷の湯王の時代には錫則子となり、文王の時代には文邑先生となった」と。また一説には「守蔵史」といった。ある人が言うに、「彼は越にいては范蠡となり、斉にいては鴟夷子となり、呉にいては陶朱公となった。」と。これらはみな諸書物に見られるが、神仙の正当な経典には見られないので、参考にすることはできない。葛稚川が言う、「私葛洪が思うにもし老子が天の精神のようなものであれば、世に現れ出ないものはないだろう。尊き身分を捨てて卑しき身分につき、隠逸を放棄して労働にいそしむ。清澄を捨てて臭穢の世界に入り、天の官位を捨てて人間界の爵位を受ける。そもそも天地があるということはすなわち道術があるということである。道術を使うものは、いつ欠けていた時期があろうか。そういうわけで伏羲以来三代にわたって、道術で名を馳せたものは、代々存在してきた。どうして常に老子一人である必要があろうか。こんなうわさはみな後世の学徒が、不思議なものを好みおかしなものを尊び、老子を崇拝しようとするからできたのだ。事実を論ずると、老子は最も正確に道を得たものにすぎず、神仙や超常的な存在ではないのだ」と。
考えるに『史記』にいう、「老子の子の名前は宗で、魏に仕えて将軍になり、手柄を立てて段に封ぜられた。宋の子の汪、汪の子の言、言の玄孫の瑕に至るまで、漢に仕えた。また瑕の子供の解は、膠西王太傅になり、斉に家を置いた」と。これはすなわち老子がもともと人の魂を持ったものにすぎないということだ。にもかかわらず浅はかな道士は、老子を神異だと思いたがり、後世の学者にもその説に従わせているが、これによって長生に学ぶ価値があると信じなくなることに気づいていないのだ。どういうことか。もし老子が道を得た人だと言えば、人々はきっと心血を注いで互いに勉学に励みあうだろう。しかしもし神霊異類だと言えば、学ぶべきではないと思ってしまうのだ。
またある人は、「老子が西に進んで関所を渡ろうとしたとき、関所の役人の尹喜は彼が並外れた人物だと分かった。そこで彼に従って道について尋ねると、老子はびっくり仰天して、舌を出して耼然、すなわち耳たぶが垂れ下がっていて、そのまま『老耼』の号がつけられたんだ」と言った。これもまた正しくない。今『九変』及び『元生十二化経』を調べてみると、老子がまだ関所に入っていない時から、既に耼という名前であった。老子はしばしば名前を変えており、「耼」という名前だけではない。その原因は、『九宮』、『三五経』及び『元辰経』に、「人生には厄に会うときがある。その時が来ると、名前を変えて気の変化に従えば、寿命を延ばし厄を乗り越えることができる」とある。今の道者も、多くはこのような感じである。老子が周にいたのは、三百余年にもわたる。二百年のうち、厄に会ったのは一回ではないはずだ。だから名前が非常に多いのだ。
老子の一部始終を定めようとしているのならば、歴史書や記録書を中心に見て、加えて神仙の経典や秘文を参照するのがよい。そのほかは俗説のようなもので、嘘が多い。
私が『西昇中胎』、『復命苞』及び『珠韜玉札金篇内経』を見ると、皆こう書かれている。老子は肌が黄色くて眉が美しく、額が広くて耳が長く、目が大きくて歯が少なく、口が四角くて唇が厚い。額には少しばかりの模様があり、日月が空にかかっているかのように骨が浮き出ている。鼻には骨が二筋浮き出て、耳には穴が三つ開いている。足は二五を踏むことができ、手は十文をとることができる。
周の文王の時には守蔵史となり、武王の時には柱下史となった。時の俗人は彼が長生きであるのを見て、「老子」と呼んだ。そもそも天命を受け、おのずと神霊に通じ深遠を見通している人は、天賦の気性が常人とは違う。道家の創始者となるべき人であるので、天神に給され、あまたの仙人に慕われるのだ。したがって彼が出した昇仙の法である九丹八石、金醴金液について、それに次いで玄素守一の術、精神集中、行気鍊形の修行、厄災祓い、霊を退けて養生する法、断食と変化の法、呪術と教戒、妖怪使役の法などについて、総じて九百三十巻、さらに符をつけた書は七十巻にも及んだ。これらはみな『老子道徳経』で老子が自ら記録したものである。目録もついているが、この中に入らないものは、みな後世の道士が勝手に加えたものであり、真の文章ではない。
老子は清廉無欲で、もっぱら長生を務めとしているので、周にいて久しいが、その名声は移らない。思うに才能を隠し身を俗世に置こうと思っているのだ。中身は自然の状態で、道が完成すると姿を消す、これが仙人である。
孔子がかつて礼について尋ねようと老子のところに行き、まず弟子の子貢に見に行かせた。子貢が到着すると、老子が彼に「あなたの師匠は名を丘と言うそうだが、三年わしの弟子になれば教えてやろう」と告げた。そして孔子が老子に会うと、老子は「価値のあるものは大事に隠して何もないかのように見せるもの。君子の德はまるで愚者のように見せかけて他人には見せない。そなたの傲慢な心と膨大な野心は、みなそなたには無益である」と告げた。
孔子が読書をしていたとき、老子が会いに来て彼に「何の書物ですか」と尋ね、孔子は「易です。昔の聖人もこれを読まれていたのです」と答えた。老子が「聖人が読まれるのはよいとして、あなた様はどうしてお読みになるのですか。その要旨はどういうことか」と言うと、孔子は「その要旨は仁義でございます」と答えた。すると老子がこう言った、「蚊や虻が皮膚の血を吸うと、一晩中かゆくて寝られなくなる。今仁義が痛々しくも人心を乱すのは、混乱これに勝るものはない。そもそも白鳥は毎日水浴びをしなくても白く、カラスは毎日染めなくても黒いものだ。天はおのずと高く、地はおのずと厚く、日月はおのずと明るく、星々はもともと連なり、草木はもともと区別がある。先生は道を修めてそれに突き進むならば、きっと到達するであろう。どうしてさらに仁義を用いる必要があろうか。これでは太鼓をたたいて迷子の羊を探すようなものではないか。そなたには人を乱す素質があるようだ」と。
老子が孔子に尋ねた、「道を体得できましたか」と。孔子は「二十七年も求めましたが、うまくいきません」と答えた。老子が言った、「もし道が人に献上できるものならば、誰もが君主に献上するだろう。人に進呈できるならば、誰もが親に進呈するだろう。人に告げられるものならば、誰もが兄弟に告げるだろう。人に伝授できるものならば、誰もが子孫に伝授するだろう。しかしそれができないのは、ほかでもない、中に主がいなければ道は留まることができないからだ」と。
孔子が言った、「私は詩・書・礼・楽・易・春秋を修め、先王の道を諳んじ、周公・召公の事績を明らかにし、七十余人の君主に採用されようとしましたが、用いられませんでした。他人を説得するのはまことに難しいことでありますなぁ」と。老子が答えた、「そもそも六芸は、先王の過去の事績である。どうして先王自身が述べたものであろうか。また、事績というのは実践して作り出すもの、そうすれば事績にはなんの相違もないではないか」と。
孔子が帰ると、三日も口を利かなかった。子貢が不思議に思ってわけを尋ねると、孔子はこう答えた。「人がたとえば鳥のような心構えをしているとすると、私は弓矢になったつもりでこれを射ると、矢が届かなかったことはなかった。また、人が鹿のような態度でいるならば、私は犬になったつもりで追いかければ、食い止められなかったことはなかった。魚のつもりならば、私は釣り針になったつもりで投げると、釣りあげられないことはなかった。しかし雲に乗って天を泳ぐ龍になると、私は捕まえられない。今老子に出会ったが、彼は龍のような人物であったよ。私の口は開きっぱなし、舌は出しっぱなしで、意識が錯綜して自分の所在が分からなくなるほどであった」と。
陽子が老子にお会いした時、老子は彼に「虎や豹の模様、猿の素早さ、それこそがあなたの射られる原因です」と告げた。
陽子が「失礼ながら賢明な王の政治についてお尋ねしたい」と言うと、老子は「賢明な王の政治は、功績が天下を蓋うほどであっても自分の力によるものだと思わず、教化が万物に及んでいても人民にあまり頼りにされない。徳があっても名声はあまりなく、計り知れない地位におりながらも無の世界に遊ぶものだ」と答えた。
老子が周を去り、西のかた関を出て崑崙の山に登ろうとしたとき、関令の尹喜は風の動きを占って、神人がここを通り過ぎるはずだということを予知した。そこで四十里も掃除して、老子を見かけるとこれを悟った。老子は中国にいたとき、誰にも道を授けたことはなかったが、尹喜は道を得るべき運命であると気づき、関に滞在した。
老子には徐甲という下男がいて、彼は若いころから老子に雇われ、一日百銭の約束であったが、合計七百二十万銭も徐甲に未払いになっていた。徐甲は老子が関を出て遊行しようとする老子に会い、早く給料を払ってほしいと催促したが、もらえなかった。そこで他人に頼んで督促状を作り、関令のところに行き、老子に申し入れた。しかし督促状を作った人も、徐甲が二百年も老子に従っていたことを知らなかったのである。彼はただ徐甲が受け取る金額が莫大であろうと考えて、その娘を徐甲に嫁がせるようにと約束した。徐甲は娘の美貌を見てひどく喜び、ついに尹喜に申し入れを行った。尹喜はそれを聞いて大いに喜び、老子に面会させた。すると老子は徐甲にこう尋ねた、「お前はずっと前から死ぬはずのものだった。私が昔お前を雇ったのは、官職が低くて家も貧しく、召使いもいなかったからだ。だから太玄関清生符をお前に与えたので、今日まで生きていられたのだ。お前は私に何の文句があるのだ。私はお前に言ったはずだ、安息国に着いたら、黄金をお前に支払おうとな。お前はどうしてそれまで我慢できないんだ。」そこで徐甲の口を地面に向けて開けさせると、その太玄真符が地面に出てきた。朱の文字がまるでいま書いたばかりのように新しい。そして徐甲は骸骨の塊になってしまった。尹喜は老子が神人で、徐甲を生き返らせることができると分かり、徐甲のために頭を叩いて助命を乞い、老子の代わりに自分が銭を出して支払いたいと頼み出た。そこで老子が再び太玄符を投げると、徐甲はすぐに復活した。尹喜は二百万を徐甲にやって立ち去らせ、かつ弟子の礼をとった。そこで老子は長生のことを詳しく尹喜に教えた。尹喜がさらに教えを請うと、老子は五千言も語った。尹喜は老子のところを去ったあとこれを記録し、『道徳経』と名付けた。尹喜はその道を実践し、これまた仙人になることができた。
漢の竇太后は老子の言葉を信じており、孝文帝や外戚、竇氏一族に至るまで、みな読まないものはおらず、これを読めばみな大いにその利益をこうむった。だから文帝、景帝の世は、天下が穏やかで、竇氏は三代にわたってその栄華を保つことができた。太子の太傅であった疎広親子は、深くその意味を理解しており、功績がなれば身を退くの意味を知っていたので、同じ日に官職を捨てて帰省し、金を散じて施しを行い、清らかなままでいた。隠居の士たちで、老子の術に従うものに至っては、皆外面では華やかさを捨て、内面では寿命を延ばし、危険な目に遭うものはいなかった。その源流は広く潤っており、かくも洋々としているのは、まさに天地が定めた、万代の模範ではなかろうか。だから荘周などの人々も、老子を祖としないものはいない。『神仙伝』より
【注釈】
中国、春秋戦国時代の思想家。道家の祖。『老子』という書物を残したとされる。『史記』に伝がある。
- 字伯陽
『史記』の「老子列伝」には、「字耼」とある。唐の司馬貞の『史記索隠』には、「有本字伯陽,非正也。然老子號伯陽父,此傳不稱也。」(字を「伯陽」とするテキストもあるが、正しくない。しかし老子は伯陽父と呼ばれており、この伝では採らなかった)とある。
- 楚
春秋戦国時代の国の一つ。現在の湖北省、湖南省を中心とした南方の国。
- 苦県(コケン)
現在の河南省鹿邑県に位置する県。老子の出身地として知られ、現在でも太清宮など老子をまつる遺跡が残っている。『史記索隠』によると、苦県はもともと陳国に属していたが、老子のころには既に陳が楚に滅ぼされたので、楚国の苦県という表記になった。
- 曲仁里
苦県の地名
- 上三皇、下三皇
中国古代神話における伝説の帝王のことを三皇五帝という。三皇については諸説あるが、(1)天皇・地皇・人皇、(2)伏羲・神農・女媧などの説がある。また、「上三皇」、「下三皇」という分け方も、引用元の『神仙伝』以前にはほとんど見られないが、唐の杜光庭の『道徳真經廣聖義』には「上三皇、中三皇、下三皇」という言い方がある。
- 金闕帝君
梁の時、寇謙之は道教の神々のヒエラルキーを定めた『真霊位業図』を著し、その際老子は「太極金闕帝君姓李」という名前で第三位に位置づかれた。
- 伏羲
中国神話に登場する伝説の帝王。民に漁猟・牧畜を教え、八卦を描き、文字を作ったという。
- 鬱華子
『神仙伝』以前では、『西昇経』という書物にのみ見られる。
- 神農
中国神話に登場する伝説の帝王。伏羲を継いで炎帝と称し、はじめて人民に農作を教えた。また、医薬の神ともされる。
神話時代の神の名前。火をつかさどる。
- 黃帝
太古の伝説上の帝王。軒轅氏ともいう。暦算・音楽・文字・医薬などを創始した。
- 廣成子
『太平廣記』同巻に「廣成子」の項目があり、この書、および引用元の『神仙伝』では別人として伝が書かれている。「広成子」という名前は『史記』や『荘子』にも見られる。
- 顓頊(センギョク)
古代の伝説上の天子。黄帝の孫。高陽氏と号した。
- 帝嚳(テイコク)
中国古代の神話上の帝王。高辛氏と称した。堯の父親。
- 堯
中国古代の伝説上の帝王。姓は伊祁、名は放勛。陶唐氏と号した。帝舜とともに理想的君主とされた。
- 務成子
『漢書』「藝文志」には「諸子略・小説家」に「務成子重一篇」、「術数略・五行」に「務成子災異應十四巻」、「方技略・房中」に「務成子陰道三十六巻」が残されている。
- 舜
中国古代の伝説上の天子。号は有虞氏。帝堯とともに理想的君主とされた。
- 夏禹
聖王。堯舜に仕えて大洪水を治め、舜の禅を受けて夏王朝を開いた。
- 殷湯
殷王朝の初代天子。暴君であった夏の桀王を攻め、夏を滅ぼした。
- 文王
周王朝の君主。周の創始者であった武王の父。殷の紂王に対する革命戦争の名目上の主導者。
- 守藏史
『史記』の「老子列伝」に、老子は「周守藏室之史也」と書かれており、『史記索隠』に「按,藏室史,周藏書室之史也。」(按ずるに、「蔵室史」とは、周の蔵書室の役人である)という注釈がある。
- 越
春秋時代、現在の浙江省あたりにあった国。紀元前306年ごろに楚に滅ぼされた。
越の政治家。越王勾践に仕えた。『史記』「越王勾践世家」に詳しい。
- 斉
周~戦国時代にかけて現在の山東省北部を中心に位置した国。
- 鴟夷子
范蠡が越を脱出し斉に逃げたあと、「鴟夷子皮」と名前を変えて商売を行い、莫大な富を収めた。
- 呉
春秋時代、現在の蘇州周辺を支配した国。
- 陶朱公
范蠡の別名。斉を去ったあと、現在の山東省にある定陶に留まり、そこでも巨万の富を築いたことから。後世、大富豪のことを「陶朱」と言った。
- 葛稚川、洪
葛洪は晋の時代の道教研究家。字は稚川。『抱朴子』、『神仙伝』を著した。
- 按史記云~家於齊
- 事魏
今回使用している中華書局本は、明の談愷刻本を底本にしている。そして明の鈔本と陳校本では「事」が「仕」になっている。
- 魏
戦国時代の国。韓・趙とともに春秋の晋を三分して独立したが、後に秦に滅ぼされた。
- 段
『史記』では「段干」になっている。『史記集解』に、「此云封於段干,段干應是魏邑名也。」とある。
- 膠西王
劉卬のこと。膠西は斉の一部。紀元前154年に呉楚七国の乱で反乱を起こした。
- 太傅
官職の一つ。太子を補佐する。
- 齊
現在の山東省北部に位置する地名。
- 神靈
北宋末の賈善翔の『猶龍傳』「序」には、「且老氏本亦人靈,蓋得道之大者也。」とあり、中華書局本ではこの「神」の字は「人」の字の誤りであろうと解釈している。ここではこの解釈に従う。
『史記』「老子列伝」に、老子が尹喜のために書を記して去ったことが書かれている。漢の劉向の『列仙伝』に詳しい。
- 九變及元生十二化經
詳しくは分からないが、おそらく『九變』と『元生十二化經』という名前の道教経典であろう。『抱朴子』に、「十二化經」と「九變經」という経典がある。
- 九宮及三五經及元辰經
「九宮」とは道家の言葉で、天にある日、月、星の「三光」、地にある珠、玉、金の「三宝」、人にある耳、鼻、口の「三生」を合わせたもの。そして天・地・人においてそれぞれ五つの要素を含んでおり、これを「三五」と言う。唐の『黄帝内經注』「三五氣合九九節」に詳しい。
また、『元辰經』について、『隋書』「芸術列伝」に、臨孝恭という人が『元辰經十巻』を著したということが書かれている。
- 並老仙經秘文
『太平御覧』巻六五九「道部一」に『神仙伝』から引用した文章があり、そこでは「并仙經秘文」と「老」の字がない。
- 西昇中胎及復命苞及
いずれも不詳
- 珠韜玉機金篇内經
「機」について、明鈔本では「机」に作る。唐『初學記』巻二三、『太平御覧』巻六五九などでは、「札」に作る。これに関して中華書局本は、本来「札」が正しいが、転写の誤りによって「机」や「機」になったと解釈している。
- 黄白色
『藝文類聚』巻七八、『太平御覧』巻三六三などの引用では「白」の文字がない。
- 日角月懸
額に骨が浮き出ている状態。古代の道術者に尊ばれた人相。
- 三漏門
両耳にそれぞれ穴が三つあること。聖人の異相だとされる。例えば『淮南子』巻二六には、「禹耳參漏」とある。
- 十文
不詳。ただ『後漢書』「輿服志下」には織物の長さの単位に「文」が使われたことが書かれている。
- 武王
- 柱下史
周、秦の官職名。漢の「御史」に当たる。常に殿の柱に立っているため名付けられた。後に老子のことを「柱下」と呼ぶこともある。
- 九丹
飲めば長生、あるいは昇天できるとされる薬。葛洪の『抱朴子』によると、丹華、神符、神丹、還丹、餌丹、煉丹、柔丹、伏丹、塞丹のこと。
- 八石
道家が煉丹で使用する八種類の原料。
- 金醴金液
古代の道士が錬成する丹液。服用すれば昇仙できる。
- 玄素
- 守一
道家の修行の一つ。精神を一つに集中させて神に通じさせること。
- 思神歴藏
内なる精神に思いを馳せることか。
- 行氣
道家において、呼吸法など内部から養生を図る修行法のこと。『抱朴子』「微旨」に、「明吐納之道者,則曰唯行氣可以延年矣」とある。
- 鍊形
自分の体に対する修行か。
- 厭勝
呪術をもって人や物を屈服させること。
凡俗の中に同化すること。『老子』に見られる。
- 孔子常往問禮~神錯而不知其所居也
『史記』巻六十三に見られるやりとり。
- 子貢
孔子の弟子のひとり。姓は端木、名は賜。弁舌に巧みで、貨殖の才も知られる。
- 周召
周公旦と召公奭のこと。周建国の功臣。
- 崑崙
中国の伝説上の山岳。中国の西にあり、西王母がいるとされる。
- 徐甲
『史記』「齊悼惠王世家」に、宦官の徐甲が登場するが、おそらく同一人物ではないだろう。
- 太玄清生符
霊符の名前。不詳。似た名前の符に「太玄陰生符」がある。(『雲笈七籤』巻八十五)
- 安息国
パルティア国の中国名。紀元前3世紀から2世紀までイラン高原に存在した。
- 漢竇太后
前漢の文帝の皇后、景帝の母。『史記』巻四十九「外戚世家」に、「竇太后好黃帝、老子言,帝及太子諸竇不得不讀黃帝、老子,尊其術。」とある。
- 孝文帝
前漢の第五代皇帝、文帝。(BC.180-BC.157 在位)
- 文景
文帝と景帝(BC.157-BC.141 在位)のこと。
- 疎廣父子
疎広は漢宣帝の地節三年(67)に皇太子の太傅に任ぜられた学者。その兄の子供である受は太子家令となった。彼らは五年務めたあと、病気を理由に同時に退職した。『漢書』巻七十一にこのことが書かれているが、そのきっかけとなった言葉は、『老子』の「知足不辱,知止不殆」(満足を知れば辱めを受けず、留まるを知れば身に危険が起こらなくなる)と、「功遂身退,天之道」(功績を成し遂げて身を引くことこそ、天の道である)である。
- 莊周
春秋時代の思想家。『荘子』を残し、老子と並ぶ道家思想の中心人物となった。
- 神仙傳
葛洪の著作。全十巻。
【一言コメント】
『太平広記』最初の条。老子は道家や神仙思想の祖とされており、そのため目録や分類において一番重要度の高い項目を先頭に置く傾向がある古代中国において、『神仙伝』の先頭(現在見られる漢魏叢書本に基づく)、『広記』「神仙篇」の先頭、及び『広記』全体の先頭に最もふさわしい人物であるといえる。そのためか、内容も二千字以上と非常に膨大で、老子の出自、噂話とそれに対する葛洪の持論、老子と周辺人物とのやり取り、後世にもたらした影響など豊富である。
私がその中でも注目したいことが一つある。
それは民間で伝わっただろう噂話についてである。老子が道家で尊ばれるがゆえに、各地で根も葉もない突飛な話が飛び交うようになり、やれ「天の精神そのものだ」だの「母親の腋から生まれた」だの本編で書かれたものだけでもかなり様々である。中でも「上三皇の時には玄中法師となって~」と、各時代に○○という人になったとずらずらと並んでおり、それらは「羣書」、つまり正式な経典以外の雑多な書物に見られると言っている。Wikipediaの「神仙傳」の項目に、
神仙伝の漢魏叢書本では、「老子は上三皇のとき元中法師、伏羲のとき鬱華子、(中略)殷湯王のとき錫則子、文王のとき文巴となる。或人曰く、越にあり、斉にあり、呉にあって陶朱公となる」と、この老子に関する記述などは明確に転生を示しており、仏教の影響もみえる。
とあるが、「羣書」の中に、当時流行していた仏教書もあったのだろうか。昔の偉人に対する噂話も時代やその時の流行に応じて姿を変え、広まっていくというのは誠におもしろいと思ったこのごろである。